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Blu-ray 真 ストレンジ・プラス Blu-ray・DVD発売日:10月19日 美川べるの原作のギャグ漫画をアニメ化したハイテンションコメディ第2期。 仕事も遊びも一流、 暴走させれば超一流な美国探偵事務所の面々のトラブルだらけな日常を描く。 全12話に加えて未放映エピソード、オーディオコメンタリーほかを収録。 2014年放送。STRANGE+ ストレンジ・プラスの続編。 http //www.dreamcreation.co.jp/stpl/ 監督 古川博之 原作・お手伝い 美川べるの キャラクターデザイン・総作画監督 古川博之 美術監督 中原英統 色彩設計 藤木由香里 撮影監督 堀川和人 編集 堀川和人 音響監督 高寺たけし 効果 風間結花 ミキサー 清水幸司 録音助手 小泉まい 音楽 ジーアングル アニメーション制作 セブン コンテ 小川優樹 細谷秋夫 馬場竜一 北村淳一 佐々木勅嘉 西野武志 いまざきいつき みうらたけひろ 演出 小川優樹 細谷秋夫 馬場竜一 北村淳一 佐々木勅嘉 西野武志 竹内崇 作画監督 古川博之 大川美穂子 吉田肇 岡田雅人 清水陽一 宮暁秀 伊藤陽祐 鈴木勘太 裾分雅明 ■関連タイトル Blu-ray 真 ストレンジ・プラス ストレンジ・プラスSongs Kindle版原作コミック 美川べるの/ストレンジ・プラス 1巻 ドラマCD付き ストレンジ・プラス 15巻 特装版 原作コミック 美川べるの/ストレンジ・プラス 1巻
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第3位 【チーム成績】 勝ち 負け 引分 連勝 勝率 打率 防率 得点率 本塁打 盗塁 失策 73 65 2 8 .528 .270 3.44 4.7 156 68 255 タイトル取得者 選手名 タイトル名 新人王 ぶすとす 281p 大道雅 首位打者 .333 山口如月 打点王 98 大道雅 盗塁王 25 AS出場者 選手名 ポジション その他 不明 ベストナイン 選手名 ポジション 醤油の発注 中継 山口如月 外野手
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「まる子 ノストラダムスの予言を気にするの巻」 は、さくらももこの漫画作品 『ちびまる子ちゃん』 のエピソードのひとつである。フィクションではあるが、五島勉の『ノストラダムスの大予言』(1973年) に端を発する最初のノストラダムス・ブームに直面した子供たちの反応を見事に描いた傑作とされている。 少女漫画雑誌 『りぼん』 1990年11月号に掲載され、単行本 (りぼんマスコットコミックス) では第8巻 (pp.36-51) に 「その50 『まる子 ノストラダムスの予言を気にする』の巻」 という題で、文庫 (集英社文庫〈コミック版〉) では第5巻 (pp.26-41) に 「まる子 ノストラダムスの予言を気にするの巻」 という微妙に異なる表記で、それぞれ収録されている。 アニメ 『ちびまる子ちゃん』(第一期) でこのエピソードは映像化されており、DVD 『ちびまる子ちゃん全集1991 「まる子達 一年生の世話をやく」の巻』 に併録されている。 【画像】 単行本版の第8巻 【画像】 文庫版の第5巻 【画像】 ちびまる子ちゃん全集1991 「まる子達 一年生の世話をやく」の巻 内容 まる子はクラスメイトから、ノストラダムスという大昔の人物が、1999年に人類が滅亡するという予言を残したことを聞く。その時点では深刻に受け止めていなかったが、クラスメイトとの会話で知ったテレビの特番を見て、絶望的な気分になる。投げやりに開き直るクラスメイトを見て、自分もそれに倣おうとするが、姉のもっともな言葉に認識を改めることになる。 評価 SF作家の山本弘はこの短編について、「七三年のノストラダムス・ブームが当時の子供たちに与えたトラウマが見事に表現された傑作」(*1)と評価し、オチにつながる姉の言葉を引き合いに出しつつ、「教科書なんかよりよっぽどためになる」 (*2)とも述べた。なお、姉の言葉 (というか姿勢) については科学解説家の志水一夫のエッセイでも引き合いに出されていた(*3)。 宗教学者の井上順孝も『若者と現代宗教』(1999年) において、「ノストラダムスの予言の話題が、当時の小学生に与えた影響がなかなかリアルに描かれている」(*4)として、ノストラダムス・ブームと若者の関係について論じた中で引き合いに出している。 【画像】 井上順孝 『若者と現代宗教』 派生 「さくらももこのシリーズ絵本」の2として『ちびまる子ちゃん、ノストラダムスで大さわぎ』という絵本になった。 書誌 作品名 まる子 ノストラダムスの予言を気にする 著者 さくらももこ 版元 集英社 出版日 (単行本)1991年10月20日、(文庫)2004年2月23日 注記 外国人研究者向けの暫定的な仏語訳書誌(Bibliographie provisoire) Titre Maruko, Nosutoradamusu no yogen wo kinisuru. (traduction / Maruko, elle se soucie des Prophéties de Nostradamus) Auteur SAKURA Momoko Publication Chibi Maruko-chan, Shûeisha Lieu Tokyo, Japon Date le 20 octobre 1991 (réimpr. le 23 février 2004) Note bande dessinée ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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ノストラダムス、本名ミシェル・ド・ノートルダム(Michel de Nostredame alias Nostradamus, 1503年12月14日 - 1566年7月2日) は、ルネサンス期フランスの人文主義者で、少なくとも薬剤師・料理研究家、詩人、翻訳者、占星術師としての著作を発表し、自らは愛星家 (Astrophile)と名乗った。また、晩年には国王シャルル9世(未作成)の常任侍医と顧問に任命された。 日本では1999年の人類滅亡を予言した人物として知られているが、そもそもその根拠となった恐怖の大王が登場する詩篇は、本物かどうかすら、実証的には十分に評価が定まっているとは言いがたい。ノストラダムスの予言がその詩篇に収斂していくかのような認識は、それ自体が通俗的なトンデモ解釈の山によって生み出された妄想である。 1980年代以降、ルネサンス期の一人の人文主義者としてノストラダムスを多角的に捉えようとする学術的成果が、主として欧米においていくつも挙げられており、彼の作品への文学的再評価なども目下着実に行われつつある。 この記事では、ノストラダムス自身の生涯について、概略的な情報を提供する。 なお、日本語文献では 「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもある。 たしかに同時代の文献でも、特認の文面、公証人によるノストラダムスの遺言書・遺言補足書、弟ジャン・ド・ノートルダムの著書などに散見されるので、誤りとまでは言い切れないかもしれない。 しかし、本人の著書の題名などでは一度も使われていない以上、適切なものとはいえないだろう。 また、Nostradamus は現代フランス語では「ノストラダミュス」/nɔstradamys/ と発音されるが(*1)、当時の韻文の書かれ方などを元に、「ノストラダミュ」と読まれていた可能性も指摘されている(*2)。 以上から、当「大事典」では正確な読みを確定させがたいフランス語読みよりも、慣例的な読みとも合致するラテン語読みの「ノストラダムス」を使用する。 【画像】息子セザールによる肖像画(1614年頃)(*3) 出生 ノストラダムスは1503年12月14日木曜日に、プロヴァンス州サン=レミの公証人ジョーム・ド・ノートルダムとその妻レニエール・ド・サン=レミの長男として生まれた。 第一子か第二子かについては議論がある。 出生記録や洗礼記録は確認されていないが、個人的な手紙で12月12日を誕生日の2日前と語っていることなどから、間接的に裏付けられている(*4)。 ただし、パトリス・ギナール(未作成)は12月21日とする新説を唱えている。この点について詳しくは記事「ノストラダムスの誕生日」を参照のこと。 なお、ノストラダムスの秘書だったことがあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーが主張しだした正午ごろに生まれたとする説は、裏づけとなる資料が確認されていない。 また、出生に関する直接的な記録がない以上、アーサー・クロケットなどが主張する 「ノストラダムスの誕生時にサン=レミ上空に見知らぬ光が現れた」などということは、実証的には全く支持できないし、神秘性を強調しようとした創作と見るのが自然だろう。 教育・学歴 ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、ノストラダムスが幼い頃には母方の曾祖父 (ジャン・ド・サン=レミ) が「天体の科学」についての手ほどきをしたと述べていた。 現代ではさらに医学、数学、各種外国語、はてはカバラなどまで教育したといわれることがあるが、ジャン・ド・サン=レミは1504年頃、つまりノストラダムスが1歳になるかならないかという時点で没していた可能性が高いため(*5)、彼が教育を施したとは考えられない。 また、父方の祖父ピエール・ド・ノートルダムないし母方の祖父ルネ・ド・サン=レミが教育係になったといわれることもあるが、どちらもノストラダムスが生まれる前に亡くなっており、彼らが教育を施した可能性はジャン・ド・サン=レミ以上にありえない。 ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。この点は実証的な伝記研究でも確実視されているものの(*6)、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。 在学中には学友たちの前で素晴らしい天体知識を披露して「小さな占星術師」(le petit astrologue) と呼ばれるようになったという話も有名だが、1789年の著者不明の創作的な伝記 『ノストラダムスの生涯と遺言』で登場する話であり(『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』の伝記第2節b参照)、信頼性に欠ける。 このアヴィニョン大学在学が事実だとしても、1520年にペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が停止されたことから(*7)、ノストラダムスもこのころに大学を出ざるをえなかったと考えられている。 ノストラダムスは1521年から1529年まで各地を遍歴し、1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。これを再入学と位置付ける見解もシャヴィニー以来根強く存在するが、入学宣誓書などの記録から事実上否定されている。 博士号を取得できたかどうかは不明であり、当時の学生出納簿ではノストラダムスの名は抹消されているため(*8)、おそらく除籍されたのだろう(*9)。 除籍の場合、もちろん博士号は取れていなかったことになる。 博士号取得後に1年間、モンペリエ大学で授業を担当したという伝説もあるが、これは17世紀の匿名の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明』で初登場したものであり(1656年の伝記第8章第2節参照)、真実であるとは考えられない。 結婚から放浪へ 1530年代初頭に人文学者ジュール・セザール・スカリジェール(未作成)(ユリウス・カエサル・スカリゲル) の招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した(*10)。 1531年にはその町のアンリエット・ダンコスと結婚したようである(*11)。結婚は1532年の可能性もある。 最初の妻をアドリエット・ド・ルーブジャックとする文献もあるが、スカリジェの妻の名と混同された誤伝にすぎない。 アンリエットとの間には子供が生まれたらしいが、性別や人数ははっきりしない (シャヴィニーは男児と女児が1人ずつと述べているが、裏付ける資料はない)。 しかし、まもなく妻と子供は病気によって亡くなったらしい。 ペストの可能性が指摘されるが、シャヴィニーの伝記でさえもその死因は書かれていないので、断定できる状況にない。ノストラダムスが各地の治療に忙殺されている間に、自宅に残された妻子がペストにかかって治療を受けられなかったなどと語られることもあるが、すべて後世の脚色である。 また、スカリジェとの仲が悪くなった上に、1538年春にはトゥールーズの異端審問官から「聖人を冒涜した」という咎で召喚を受けたようである(*12)。 プロテスタント系の医師フィリベール・サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスも巻き添えにあったという説もあるが(*13)、いずれにせよ、ノストラダムスはこの召喚には応じずに旅に出た。 このころの話としては、ロレーヌ地方のフロランヴィルの領主の居城に逗留し、白豚と黒豚に関する見事な予言を披露したとされるが、これもまた『ミシェル・ノストラダムス師の真正なる四行詩集の解明』 で登場したものであり、非常に疑わしい。 ほかにオリヴァリウスの予言(未作成)やオルヴァルの予言(未作成)とも結び付けられたりもするが、それもまた根拠のない話であり、それらの予言はほぼ間違いなく19世紀の偽作である。 ペスト治療医 長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユ(未作成)の医師ルイ・セールに師事したとされる(*14)。 現在では翌年にマルセイユの3人の囚人の診察をした記録も発見されている(*15)。 1546年にエクス=アン=プロヴァンス(未作成)でペストが大流行した時には、ペスト治療の医師または薬剤師として市当局から雇われた。1546年6月付の契約書は現存しており、市の会計簿にも同様の記録が残っている。 しかし、そこで行われた治療は芳香性の丸薬などを処方するもので、伝統的なペスト治療の手法と大きく異なるものではない。通俗的には、ノストラダムスが未来の消毒法や治療法を先取りしていたかのように述べる文献も多いが、それらのほとんどは根拠がない(*16)。 再婚 その後、ノストラダムスはプロヴァンス州サロン・ド・クローに落ち着き、1547年11月11日に未亡人アンヌ・ポンサルドと再婚した。 ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ(未作成)、サヴォーナ(未作成)などを回ったらしいことが窺える(*17)。 ただし、将来シクストゥス5世となる若者の前でひざまずいて教皇になると予言したエピソードは、ほぼまちがいなく創作だろう。 1553年には町の名士として公共の泉の碑文(未作成)を起草している。 また、1550年代後半にはクラポンヌ運河の建設に出資したりするようになる(*18)。 アンリ2世との関係 こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書の刊行を始めた。 最初に刊行されたのは1550年向けの暦ないし占筮で、1549年頃に出された。暦書は毎年のように刊行され、『予言集』の執筆につながった。 1555年5月に初版が出された『予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なものではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる(*19)。 ただし、そのわずか2ヶ月ほど後に、国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)から招待を受けたのは、『予言集』の反響ゆえではなく、時期的に言っても『暦書』の予言が原因だった (*20)。 翌月に王宮で行われた謁見では成功をおさめ、褒美を賜ったとされるが、会見内容は不明である。アンリ2世の不吉な未来を直言したとも言われるが、全く根拠はない。 当「大事典」としては、暦書に掲載されたアンリ2世への献呈文の内容から考えて、むしろ言われているほどうまく行かなかったのではないかとも考えている。 褒美を賜った以上、不興を買うまでには至らなかったにせよ、その褒美にしても金額は十分ではなかったとも言われており、アンリ2世の覚えがめでたくなったとは考えづらい(*21)。 カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたようである。 ヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエルの報告書にもその予言は見られるが、原文に即する限りでは、的中したとみなすのは難しい。 なお、恐怖の大王は目に見えない存在だとカトリーヌに述べたという、いわゆるブロワ城の問答も史実ならばこの時期に当たるが、時期設定などの内容があまりにも支離滅裂なため、創作と見るのが自然だろう。 1559年には、アンリ2世はモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ(未作成)との馬上槍試合で致命傷を負い、10日後に没した。 通俗的な説では、当時これが詩百篇第1巻35番の情景通りだったとして大反響を巻き起こしたことになっているが、そのような記録は全くない。ノストラダムス自身が文人ヴォゼルにあてた献辞の中で、別の詩によって的中させたことをそれとなくほのめかしている程度である。 フランソワ2世、シャルル9世との関係 アンリ2世の次に王となった長男フランソワ2世(未作成)は病弱で、1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。 ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノ(未作成)やトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニ(未作成)らの外交書簡が伝えているのでそれは史実だったはずだが(*22)、彼らが引用している予言はノストラダムスの作品にはない。 どうも噂される中で、ディティールに関する尾ひれがつきまくったのではないかと思われる。 ノストラダムスは数多くの相談を受ける立場にあり、現存する往復書簡は、大実業家ハンス・ローゼンベルガー、その仲介役をつとめた法学者ロレンツ・トゥッベなどとのやり取りを伝えている。 1564年には、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世(未作成)一行の訪問を受けた。 フランス各地をまわる大巡幸の途上にあった国王一行は、わざわざノストラダムスに会うためだけにサロンに立ち寄り、アンペリ城で会見をした。 随行していた少年アンリ・ド・ナヴァル (のちの国王アンリ4世) の裸を見て、国王になることを予言したとされるエピソードもこのときのことである。その話も鮮やかではあるが、細部には色々と疑問がある(*23)。 さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医」および「顧問」の称号を下賜したようである。 この正確な時期は確定できていないが、息子セザールの証言通りアルルでのことだったのなら、公式日程の記録からいって1564年11月16日から12月17日の間だったことになる(*24)。 なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではなく、彼が国王から何らかの称号を賜ったのはこれが唯一であった。 アンリ2世の宮廷で仕えていたなどといった通俗的な説は、史実としては全く支持できない。 最期 その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようである。 そして1566年6月には公証人ジョゼフ・ロシュ(未作成)を呼んで遺言書・遺言補足書を作成した。 7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされるが(*25)、シャヴィニー自身の証言以外には何ら裏付けがない。 また、1567年11月向けの予兆詩で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、予言通りに死んでいたなどと言われることもあるが、こうした解釈は19世紀のフランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエらが具体的根拠を挙げない形で主張しだしたものにすぎず、まず間違いなく創作だろう。 ノストラダムスは地元サロンのフランシスコ会修道院付属聖堂に葬られたが、後に移葬された。 五島勉はこの附属聖堂に関し、聖フランソワの闇の掟という伝説を紹介したが、ほぼ間違いなく創作である。 現在は同市内のサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)にノストラダムスの墓がある。 遺産 ノストラダムスは遺言書などの規定に従うならば、現金・債権・宝飾品などの形でかなりの財産を持っていたらしい。 しかし、それを受け継いだ者たちが (特に形見となる品々について) どのように扱ったのかはよく分からない。ノストラダムスの所持品だったとされるもので現在まで伝わっているのは、ごく一部の蔵書とわずかな手紙類のみである。 自宅の地下室や墓の壁を壊したら新予言が見付かっただのという、センセーショナルな「遺産」が取りざたされたことは17世紀以降何度もあるが、いずれも偽作と見るべきだろう。 特に日本で有名なクロケットの四行詩はひとつ残らず偽作と見て間違いない。 関連項目 ノストラダムス研究史 ノストラダムス現象 ノストラダムス関連年表 外部リンク ノストラダムス(Wikipedia日本語版の記事)主執筆者は当「大事典」管理者でもあるsumaruで、この記事は「秀逸な記事」に選出されている。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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書名 世紀末のイラストレーターたち 書誌情報 出版社(叢書・シリーズ名)美術出版社 発行年月日1976年5月31日 版型 造本データ ページ数(未確認) 定価(未確認) 装丁(未確認) 異版 目次 あとがきより 主な初出 補記
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エルギーノス エルギノスの別名。
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パワプロ15ペナントまとめ 読売ジャイアンツ 中日ドラゴンズ 阪神タイガース 横浜ベイスターズ 広島東洋カープ 東京ヤクルトスワローズ 北海道日本ハムファイターズ 千葉ロッテマリーンズ 福岡ソフトバンクホークス 東北楽天ゴールデンイーグルス 埼玉西武ライオンズ オリックス・バファローズ パワプロ2011(決定版含む)ペナントまとめ 福岡ソフトバンクホークス 北海道日本ハムファイターズ 埼玉西武ライオンズ オリックス・バファローズ 東北楽天ゴールデンイーグルス 千葉ロッテマリーンズ 中日ドラゴンズ 東京ヤクルトスワローズ 読売ジャイアンツ 阪神タイガース 広島東洋カープ 横浜ベイスターズ パワプロ2012ペナントまとめ 福岡ソフトバンクホークス 北海道日本ハムファイターズ 埼玉西武ライオンズ オリックス・バファローズ 東北楽天ゴールデンイーグルス 千葉ロッテマリーンズ 中日ドラゴンズ 東京ヤクルトスワローズ 読売ジャイアンツ 阪神タイガース 広島東洋カープ 横浜DeNAベイスターズ
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ディメンション・ゼロイラストレーター 279 名前:水先案名無い人 :2007/11/13(火) 16 42 56 ID IHl/WqnL0 全ディメンションゼロイラストレーター入場!! 人気絵師は生きていた!! 更なる研鑚を積みコロボックル勢が甦った!!! ラノベ系!! 山本ヤマトだァ――――!!! 萌えイラストはすでに我々が完成している!! ロリ絵だけじゃなくメカも描けるムラナコだァ――――!!! 見つけしだいレアを集めまくってやる!! ウィザードリィ代表 末弥純だァッ!!! 美麗なイラストなら我々の歴史がものを言う!! ガンダム マクロス 美樹本晴彦!!! 一万年と二千年前から愛したい!! アクエリオン 金田榮治だァ!!! 美女絵は3階級制覇だがD0なら全階級オレのものだ!! パナマの人魚 隼優紀だ!!! メカ対策は完璧だ!! トリスティアから こつえー!!!! 全カードイラストのベスト・プリティは私の中にある!! ペンギンの神様が来たッ 三好載克!!! 隊列召喚なら絶対に敗けん!! ゲームのイラスト見せたる ペルソナ3 副島成紀だ!!! バーリ・トゥード(なんでもあり)ならこいつが怖い!! 萌えエロのピュア・ファイター 七瀬葵だ!!! 特撮世界から怪獣絵師が上陸だ!! ウルトラマンの 開田祐治!!! ルールの無い絵が描きたいからイラストレーター(用心棒)になったのだ!! プロのイラストを見せてやる!!獅子猿!!! 十二国の土産にイラストとはよく言ったもの!! 達人の奥義が今 D0でバクハツする!! 十二国記 山田章博先生だ―――!!! 世界少女マンガ級チャンプこそが地上最強の代名詞だ!! まさかこいつがきてくれるとはッッ あずみ冬留!!! 描きたいからここまできたッ キャリア一切不明!!!! オールラウンドなピット(ケンカ)ファイター S.of.Lだ!!! オレたちは漫画最強ではないイラストで最強なのだ!! 御存知さくら CLAMP!!! イラストの本場は今やSFにある!! オレを驚かせる奴はいないのか!! toi8だ!!! エロォォォォォいッ説明不要!! おっぱい!!! おしり!!! 夢路キリコだ!!! イラストは実戦で使えてナンボのモン!!! アメリカ版桃太郎の作者!! 本家アメコミからタケダサナの登場だ!!! お色気枠はオレのもの 邪魔するやつは思いきりパワーを下げ思いきり萌えさせるだけ!! セクシーなおねーさん統一王者 山下しゅんや 自分を試しにD0へきたッ!! ショタからモンスターまで 百瀬寿!!! メカに更なる磨きをかけ ”ガンプラ”森下直親が帰ってきたァ!!! 今の自分に死角はないッッ!! FF9のモンスターデザイナー 長澤 真!!! SFとTVアニメの拳技が今ベールを脱ぐ!! robotから 帝国少年だ!!! ファンの前でならオレはいつでも全盛期だ!! 燃えるあきまん 安田朗 本名で登場だ!!! コーエーの仕事はどーしたッ 絵師の炎 未だ消えずッ!! 三国志もファンタジーも思いのまま!! 長野剛だ!!! 特に理由はないッ 漫画家が強いのは当たりまえ!! ジャンプにはないしょだ!!! デルトラクエスト! にわのまことがきてくれた―――!!! フランスで磨いた実戦イラスト!! ハード絵のデンジャラス・ライオン 沓澤龍一朗だ!!! ベースだったらこの人を外せない!! 超A級イラストレーター 脳髄だ!!! 超一流イラストレーターの超一流のイラストだ!! 生で拝んでオドロキやがれッ アルトネリコの鋼鉄人!! 凪良!!! ダーク絵はこの男が完成させた!! D0の切り札!! 前河悠一だ!!! FFの王者が帰ってきたッ どこへ行っていたンだッ 画伯ッッ 俺達は君を待っていたッッッ天野喜孝の登場だ――――――――ッ 加えて上記のイラストレーターに備え超豪華なリザーバーを4名御用意致しました! ギルティギア! 石渡大介!! ファンタジー絵の巨匠 米田仁士!! 岸和田博士の科学的愛情! トニーたけざき! ……ッッ どーやらもう一名は到着が遅れている様ですが、到着次第ッ皆様にご紹介致しますッッ 関連レス 292 名前:水先案名無い人 :2007/11/14(水) 15 09 22 ID xL2f/JzX0 279 こつえーだけだな連続出場は。 コメント 名前
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原語 illust 和訳 イラストレーションを参照。 備考欄 辞書 説明 廣辭林新訂版 (無記載) 新訂大言海 (無記載) 角川国語辞典新版 (無記載) 正称 イラストレーション 同義等式 カタカナ語単位 イラスト=絵 附箋:I イ 英語
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ノストラダムスは1566年6月17日に遺言書 (testament) を口述で作成させ、1566年6月30日に遺言補足書 (codicille) を作成させた。この項目ではそれらについて概説する。それぞれの原文・全訳は以下のリンクを参照のこと。 ノストラダムスの遺言書 原文と語注ノストラダムスの遺言書 全訳と訳注 ノストラダムスの遺言補足書 原文と全訳 概要 ノストラダムスは1566年6月17日に、公証人ジョゼフ・ロシュと、証人 (立会人) として8人の知人を呼び、遺言を口述した。その内容をごく簡単に要約すると以下の通りである。 埋葬場所をサロンのフランシスコ会修道院内にする。 葬儀を遺言執行人 (パラメド・マルク、ジャック・シュフラン) の裁量にゆだねる。 13人の貧者 (選定は遺言執行人に委ねられる) に6スーずつ施しをする。 サロン市内や近郊の修道院などにも1、2エキュ程度ずつ寄付をする。 近親者マドレーヌ・ブゾディーヌが結婚するときに10エキュを与える (結婚しないときは無効)。 妻アンヌ・ポンサルドには、400エキュの現金、住居の3分の1の使用権、居間の「大箱」と寝台近くの小箱、寝台と付属品・関連調度品、いくらかの食器類や地下室の樽、彼女が欲する衣類や宝飾品などを遺す (再婚時は無効)。あわせてアンヌを子供たちの唯一の後見役とし、後述の基金の利益から食費や被服費を得てよいものとする。ノストラダムスの兄弟は、遺産の扱いにもアンヌの後見にも、一切の干渉をできないこととする。 長女マドレーヌ・ド・ノートルダムに600エキュ、次女アンヌと三女ディアーヌ・ド・ノートルダムに500エキュずつ、それぞれ結婚時に後述する基金から与える (結婚しないときは無効)。 長男セザール・ド・ノートルダムには金箔を二重に貼った銀杯、木製と鉄製の椅子1脚ずつ、三男が25歳になるまでの住居の共同使用権と、その後の独占的使用権 (アンヌ・ポンサルドの使用分を除く) を与える。 次男シャルルと三男アンドレには、アンドレが25歳になるまでの住居の共有権と、25歳になって家を出る際に100エキュずつ与える。 すべての蔵書は、息子たちのうちで最も学問に長じることになる者が得ることとするが、それらの蔵書と手紙類は、その者が受け取るに相応しい時期まで封印され、目録なども作成してはならない。 上記3人の男児を相続人と指定し、跡継ぎのないまま死去した者が出たら、残った者たちで権利を引き継ぎ、全員がそうなったら、上記の3姉妹で置き換える。 妻アンヌが男児を懐妊していたら、その子 (双子ならその子たち) も相続人とする。女児を懐妊していたら、その子ないしその子たちにも上記の3姉妹と同じやり方で500エキュの結婚持参金を持たせる。 不動産と家財以外で遺産を構成する総額3444エキュ10スーの現金と1000エキュ (異本では1600エキュ) 分の債権は、数人の商人にあずけて基金を作り、適切な資産運用を行わせる。その現金はノストラダムスが死ぬまで家の金庫3つにおさめられ、その鍵は遺言執行人でもあるマルクとシュフランに加え、市の執政官であるマルタン・ミアンソン (異本ではマルタン・マンソン) の3人に預けられる。 続いて13日後の6月30日に同じ公証人ロシュと、証人として5人の知人 (うち遺言書の証人と重複するのは1人のみ) を呼び、遺言補足書を作成させた。その内容は、遺言補足書の有効性と手続きに関する記述を除けば、以下の3点に要約できる。 長男セザールには、天体観測儀と、紅玉髄を嵌めこんだ金環を追加で残す。 長女マドレーヌには、ノストラダムスの書斎にある、衣類や宝飾品を入れたクルミ材の木箱2個を追加で残す。この箱は、誰の干渉も受けずに、ノストラダムスの死後すぐにマドレーヌのものとなる。 それ以外の事項は、すべて6月17日の遺言書が効力を持つ。 つまり、実質的には、長男と長女への遺贈の追加を定めただけである。ピーター・ラメジャラーは、遺言書の時点では (長男と長女は他の兄弟姉妹よりも優遇されていたものの) ノストラダムス自身の形見といえるものを貰えなかったので、それに不満が出たのではないかと推測していた(*1)。 コメント それらの内容には、書かれていることと書かれていないことのそれぞれに興味深い点がある。 まず、遺言書に書かれている点で興味深いのは、蔵書と手紙の扱いである。イアン・ウィルソンも指摘するように、ノストラダムスが予言能力を持っていたのなら、なぜここで具体的に誰に残すと明言できなかったのかが疑問である(*2)。もちろん信奉者側からすれば、あらかじめ明示せずに切磋琢磨させるため、ということになるのだろうが、蔵書や手紙というのは息子たちから見て、先を争って相続したいと思うほどに魅力的な遺贈品だったのだろうか。なお、ノストラダムスの署名入りの蔵書にセザールの署名が添えられている事例が確認されていることや、手紙を保管することになったのがセザールだったことから言って、実際に相続したのはセザールだったようである。 また、ここで言われている手紙がBN ms. Lat. 8592の原本だったことはほぼ間違いないだろうから、ノストラダムスがその封印を希望したというのは、異端視されることと、それによって子供たちに被害が及ぶことを恐れたためだろう。蔵書もろとも封印しておくことを希望したということは、蔵書にも何か異端を疑われる文献が含まれていたのかもしれない。この点は、セザールへの手紙において、一部の文献を燃やしてしまったと主張していたこととの関連からも興味深い。 次に興味深いのはノストラダムスの弟たちの位置付けである。1566年の時点で少なくとも商人ベルトラン、法曹家ジャン、法曹家アントワーヌ、おそらく商人のエクトールらが存命だったというのに、彼らを遺産から遠ざけ、アンヌ・ポンサルドの後見人としての行為にさえ干渉させないというのは、少々不自然に思える。特にジャンは、ノストラダムスが1555年の『化粧品とジャム論』で献辞をあてていたくらいなので、兄弟仲が悪かったとは思えない。 そして、アンヌ・ポンサルドへの遺言では、くどいくらいに再婚した場合や死去した場合の規定を盛り込んでいるにもかかわらず、後見人についての規定では、すべての子供たちが被後見子でなくなる前にアンヌが死去した場合に誰が後見役となるのかについて、ひとことも触れていない。結果的にアンヌの逝去は1582年のことで、末っ子だったディアーヌも20歳を過ぎていたので、その規定がなくても大きな障害にはならなかったが、弟たちに協力を仰ごうとしなかったのは、なんとも不可解な話である。 弟たちについては、「書かれなかったこと」の点でも興味深い。ノストラダムスはマドレーヌ・ブゾディーヌという詳細不明の近親者 (姪?) への遺贈を行っているのに、弟たちやその妻子には何も遺していないのである。これもまた、不可解というほかはない。 それ以上に不可解なのは、(元)秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの位置付けである。シャヴィニー自身は、のちにノストラダムスから死の前夜、最後に言葉をかけられたのは自分だと主張するようになる。それが事実なら、当然遺言書が作成された時点でも居合わせたはずだが、遺言の代筆人としても、立会人のひとりとしても、ましてや何かを遺贈される者としても、一切言及されていないのである。イアン・ウィルソンは、シャヴィニーがノストラダムスとの親密さを誇張して語ったか、ノストラダムスが、報酬を払って雇い入れていた存在だったシャヴィニーには、遺贈の必要を感じなかったかではないかとしている(*3)。 遺言補足書がセザールへの天体観測儀 (アストロラーベ) の遺贈を主眼とするものであったことは、ほぼ疑いのないところであろうと思われ、この点からすれば、ラメジャラーの指摘が正しいのかもしれない。 さて、この天体観測儀は1561年9月9日付の手紙 (BN ms. Lat. 8592の30番) で、「母方の曽祖父ジャン・ド・サン=レミから私へと受け継がれた天体平面図 (planisphere) および他の道具を使い」(*4)という形で言及されている占星術道具に含まれていたのかもしれない。もっとも、そこにおいて、曽祖父譲りの占星術道具の中で唯一明言されていた天体平面図がどうなってしまったのかは、遺言書や遺言補足書からは読み取れない。 なお、加治木義博は、天体観測儀だけでは占星術上の見立てが行えないことから、ノストラダムスが占星術を嫌っていた証拠だと決め付けていたが(*5)、上記のように複数の道具を使っていることを示す手紙が残っているほか、他の占星術師の星位計算を参照していたことが明らかになっているので、的外れな評価であるように思われる。 また、遺言補足書で目を引くのは、立会人に医師、外科医、薬剤師が1人ずつ含まれていることである (後出の日本語文献ではジローという人物も医学博士にされているが、dict の解釈を間違えたのだろう。ジローは文盲とされているので、博士号を持っていたはずがない)。ラメジャラーは、この3人はノストラダムスに付き添っていた医師たちではないかと推測していた(*6)。 その推測が事実だとすると、町の名士を集める余裕もないほどに、遺言補足書は急いで作成が決定されたということでもあるのかもしれない。 原本と謄本・抄本 遺言書と遺言補足書の原本とされるものは、現在マルセイユのブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館に現存している。Fonds 375E no2 (Giraud) des notaires de Salon, registres 675 et 676 がそれで、676番の507葉から512葉が遺言書と遺言補足書の原本ないし謄本、ノンブルのついていない675番がそれらの抄本を含んでいる(以下、便宜的に当「大事典」では前者をマルセイユ原本、後者をマルセイユ抄本と呼ぶ)。 複写も複数作られた。フランス国立図書館には17世紀の系図学者ピエール・ドジエ (Pierre d’Hozier) が作成した写本が残っている。そこには「ベラール氏によって伝えられた。1659年」 とあるが、実際にはベラールではなく、サロンの公証人ピゾン・ベルナール (Pison Bernard) のことであろうと考えられている。ドジエの写本は、そのベルナール、別の公証人、サロン市の判事ジャン・ド・バロ (Jean de Barros) らによって複写されてきた写本 (現存せず) に基づいているようである。 フランス国立図書館には、ピゾン・ベルナールによる写本を複写した別の写本も現存している。 18世紀後半にはアルル大司教デュロー (Dulau) のもとで司書をつとめていたローラン・ボヌマン師 (l’abbé Laurent Bonnement) によって、別の写本が作成された。これがアルル市立図書館に現存する写本 (以下、便宜的に当「大事典」ではアルル写本と呼ぶ) で、1920年にユージン・パーカーの求めに応じて、同図書館の古文書係であったアンリ・デール (Henri Daire) がタイプライターで複写した。パーカーはハーヴァード大学に提出した博士論文にそれを収録した(*7)。 マルセイユ原本・抄本の紹介は、1962年にダニエル・ルソが雑誌記事で初めて行い、のちの著書にも収録された。彼はマルセイユ原本を底本としつつ、マルセイユ抄本との対照も行い、抄本では公正証書としての冗長な表現がかなり削られていることなどを示した。 なお、当「大事典」でマルセイユ原本・抄本とアルル写本を比較したところ、アルル写本の遺言書はマルセイユ抄本と非常によく似ているのに対し、遺言補足書はマルセイユ原本とほぼ同じであった。現在のマルセイユ原本・抄本はそれぞれ遺言書と遺言補足書がセットになっているので、そのような結果は少々不自然なものに思われる。 埋葬場所の指定に関する予言 遺言書では、ノストラダムスが当初サン=ローラン教会を指定したのを打ち消して、フランシスコ会修道院付属聖堂に変更したという話が知られており、墓暴きの結果、実際にサン=ローラン教会に移されたため、予言の的中例として指摘されることがある。 たしかに、遺言書にはその打ち消された文言があるが、それはマルセイユ原本ではなく、マルセイユ抄本のみに存在している(*8)。 大幅に省略された抄本であるマルセイユ抄本に、なぜ原本に存在しない文言が挿入され、打ち消されているのかという点は、実に不可解なことである。現在の原本が署名などまで忠実に複写された謄本なら、失われた原本にその文言があったと理解することもできようが、そうでないのなら、その打ち消された文言はノストラダムス本人に由来するものなのかどうか、慎重に検討されるべきだろう。 なお、その打ち消された文言が本当にノストラダムスの発言だったとしても、予言の的中例とみなせるのかには疑問も残る。その点は当「大事典」管理者が共著 『検証 予言はどこまで当たるのか』 でも論じたとおりである。 研究史 前記のユージン・パーカーをはじめ、伝記的検討の一環で取り上げられることはあった。エドガー・レオニもアルル写本を孫引きし、対訳も掲載していた。 エドガール・ルロワもノストラダムスの伝記研究の一環で取り上げ、適宜引用をまじえつつ、要約的に紹介した。明記されていないが、内容を見比べる範囲では、アルル写本をもとにしたように思われる。 ルロワの要約はピーター・ラメジャラーや竹下節子の著書でも利用された (ラメジャラーらははっきりそう明言していないが、いくつかのルロワの誤りがそのまま踏襲されているので、そう判断できる。一例を挙げると、彼らは共通して遺言補足書が遺言書の3日後に作成されたとしているが(*9)、13日後の誤りだろう)。 伝記的視点での位置づけは、竹下による 「いたれりつくせりのこの遺言状にはノストラダムスの他の著作のようなペダントリーもレトリックも曖昧さもない。明快で実用的で、しかも年をとってからできた家族を愛し守ろうという気持ちが良く伝わってくる」(*10)という評価につきるだろう。 信奉者側の見解 ダニエル・ルソは伝記的な受容に異議を唱え、遺言書と遺言補足書にこそ 『予言集』 の謎を解く鍵があると主張した。ルソは遺言書などに含まれる (あるいはそれらから算定できる) 数字に着目し、様々な 「暗号」 を読み解いていった。 そうした読み方は、もちろん実証的には全く支持できないのだが、日本語文献で遺言書の訳が載っている唯一の著書が彼 (日本語文献では 「ダニエル・ルゾー」 と表記) の著書の抄訳である『ノストラダムスの遺言書』 (二見書房) だったため、あれこれと勝手な暗号解釈をほどこす論者は日本でも見られた。 たとえば、浅利幸彦は遺言補足書の日付1566年6月30日は6を9にひっくり返して並べ替えると、自分の誕生日である1956年9月30日を導けるとした上で、遺言書と遺言補足書の間隔である13日などは、自分の名前をアルファベットで表記したときに13文字になることと対応するとして、それらを自分が最終解読者であることの証拠とした(*11)。 彼の論法では他の日付も多く出てきてしまうし、そもそもなぜ遺言書本体ではなく、遺言補足書の日付なのかも説明されていない。また、特に母音が多い日本人名の場合、アルファベットで13文字になる人物など珍しくもないので、証拠というにはあまりにも薄弱であるように思われる。 また、加治木義博は、遺言書でセザールに「銀メッキの皿」が遺贈されていることに注目し、そんな安物をわざわざ特筆したのは、そこに未来予知の鍵があるからだと主張した。加治木はノストラダムスがいわゆる「コックリさん」に似た手法で予言をしたと主張しており、「銀メッキの皿」 はその際に油性の絵の具で文字を書いて、振り子に示させるための文字盤代わりにしたのだという(*12)。 しかし、遺品に 「銀メッキの皿」 など存在しない。実際に原文にあるのは 「金箔を二重に貼った銀杯」(coppo d’argent surdorée) で、それは前掲の関連書にあった問題の多い日本語訳にさえ 「銀メッキの盃」 と書かれていた。加治木はそれを見間違えたか、自身の解釈に合わせて勝手に読み替えたのではないだろうか。 杯 (coppo / coupe) にはボウルのような器の意味もあるが、文字盤の代わりになる平皿ではない。アンヌ・ポンサルドへの遺贈品には「大皿」(plat) があるので、安物の(?)皿をセザールに贈りたかったのなら、そちらを挙げたはずである。 そして、実際に贈られた 「金箔を二重に貼った銀杯」 は字面からすれば、どうみても安物には思えない。おそらくそれは顧客であった大実業家ハンス・ローゼンベルガーから贈られた銀杯と同じものだろう。1561年7月15日付の手紙でノストラダムスはその銀杯を受け取った礼を述べているが、その銀杯はより詳しくは「純金で被われた銀のカップ」(*13)だったからである。 ローゼンベルガーはノストラダムスを深く信奉していた大実業家であり、その人物が占いの謝礼として支払った銀杯が安物だったはずはないだろう。実際、仲介役だったロレンツ・トゥッベは銀杯についてドイツの貴族が持つような代物と評していたし(*14)、ノストラダムス自身、それを手がけた職人の腕前の見事さと、そのような逸品を贈ってくれたローゼンベルガーの厚意を絶賛していた(*15)。大事にしていた長男セザールへの遺贈品の中で、そのような高価な品を真っ先に挙げるのは、父親の心遣いとして実に自然なことのように思われる。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。